跡部さんのすわる席、前後1メートルの範囲には、つねにテニス部の後輩やら、生徒会の連中やら、キラキラした熱っぽい眼ざしでみつめる女子やら、それを威嚇するハナ息あらい親衛隊やらで、ごったかえしているけれど、中間テスト前のこの期間だけは、特定の人間のためだけにあけられる。



「あとべえーこのIsolationて何の意味?わかんねえよー 」
          
「跡部ーここさーかけたらえらい数字になったんだけど?」


今日も俺が2年のレギュラー代表で(鳳は宍戸先輩によびだされた)2年部員の中間目標をもって、跡部さんの教室をたずねた時、その机には頭からつっぷして苦悩する芥川先輩と、どこか遠い目で教科書をみつめる先輩と、その双方を心底あきれた顔でみつめる跡部さんがいた。


「でさーこの訳は「彼は舶来の森のほ乳類です」でいいの?」
          
「慈郎、なんでも直訳すればいいってもんじゃねー、それ日本語でもおかしいぞ?」
          
「ねえ、今の数学の答え、紙に書いたらはみ出したんですけど?ながすぎじゃない?」
          
「それは100%お前の計算が間違っているからだ、んだよ、そのやっぱり?て顔は
お前うすうす気づいてただろ?」

「「ごめーん、跡部ー」」
          
「たくっ」


そうグチりながらも、根気よく勉強をおしえる跡部さんと、ワルびれないダメ生徒2人の図はテスト前の恒例行事だ。とくに最近は先輩も加わったもんだから、いつにもましてにぎやかだ。 「くそー何でまちがえるかなー」といって、教科書をみて伏せた先輩の睫毛の長さに「この人しゃべらなければなあ」と人ごとのように思う。


「おう、どうした?日吉?」


跡部さんがこちらに気づき、問いかけて来た。


「2年部員の中間目標持ってきました」
          
「そうか、ご苦労さん」

    
形式的な礼をして、踵を返して出ていこうとした時、背後から跡部さんの「お前ら......毎回毎回、もし俺がいなくなったらどうすんだ?早く自分でできるようになりやがれ」という苦笑まじりの声がきこえた。「だってさーあとべー」とブーたれる芥川先輩と「うわっ、それ超困る!」とあせる先輩.........と、俺はその瞬間、机の下で急に握りしめられた手と、すぐ笑顔に隠されてしまったが、ほんのわずかな一瞬、先輩の顔によぎった悲痛な表情を見逃さなかった。

なんだ、所詮この人も跡部さんに憧れるただの女かー

教室を出る瞬間、たいして気にもせず俺はイジワルくそう思った。
何が“所詮この人も”だったのかについては考えなかった。






それから3日後、ちょうど中間テストの真っ最中の昼休み、順調にヤマを当てている俺はまだ少し不安げに教科書をながめている鳳を横目に、昼食用のお茶を買いに自販機へと向かった。(美術で点稼ぎしてるんだからあそこまでナーバスにならなくてもな)と思いながら自販機近くまで行くと、既にそこには先客がいた。
         
ガコンッ!!

自販機の人工的な照明にてらされた細身のシルエット。取り出し口に落ちたブラックコーヒーをとり出しながら「あれー日吉?」と非常にのんきな声をだして、先輩がそこにいた。


「休憩ですか?」
          
「えーと、まあ、そんな感じ」

          
ちょっと疲れた風に、煮え切らない返事をした先輩の表情に、さぞテスト勉強が大変なんだろうなあと思い、その後にこんな所でのんきにコーヒー買ってる余裕なんてあるのか?と非難めいた思いがよぎる。(まあ、俺には関係ないな)と考え直して自販機に金を入れようとすると「あっ、ごめん日吉、ちょっとまって!」と慌てて先輩に止められる。

「なんですか?」
          
「ごめん、あたし今お金入れたばかりでまだ決定ボタン押してないんだ」
          
「そうですか」
          
「えーとね....」
          
「............」
          
「んーとね....」
          
「............」
          
「これ.....かなあ?」
          
「............」
          
「でもこれってことも....」
          
「............」
          
「うーん.....」
         
先輩、早くして下さい」
          
「ああ、ごめん!日吉」


          
真剣に自販機をみつめて悩む先輩、その黒めがちな瞳に色とりどりの缶がうつりこみ、微妙な七色にみえる。自販機周辺には俺と先輩以外誰もおらず、ドリンクを冷やすゴー......という機械的な音以外何もしなかった。無防備に迷っている頼りなげな細い肩をながめていると、なぜだかわからないが無性にイライラしてきた。

その左手に握られているブラックコーヒーだけじゃ駄目なのか?大体こんな所でのんきにコーヒーを買っている暇があるんなら、もっと跡部さんに勉強をみてもらった方がいいんじゃないか?勉強にかこつけて話ができるなんて素晴らしいじゃないか?ついでに今持ってるコーヒーでも差し入れれば、もっと気に入ってもらえる、その跡部さんもまだ飲めると言っていた銘柄のコーヒー.....................

          
そこまで考えて、ああ、そうかと俺は思い至った。

         
「紅茶ですよ」
          
「え?」
          
「紅茶、跡部さんが好きなもう一つの飲み物」
          
「え、あ、そっか」


ガコンッ!
          

無機質な音をたててストレートの紅茶が取り出し口に落ちる。
          

「.....ありがとう、日吉」
          

少し恥ずかしそうに髪をかきあげながら、紅茶を手にとる先輩。「別に」と感謝と戸惑いのまなざしを無視してコインを入れて、生茶のボタンを押した。
         
          
「........やっぱりさ、わかりやすい、かな?」
         

俺が背をかがめて、お茶を取り出そうとした瞬間、おずおずとした声が背中に問いかけて来て、俺は盛大に舌打ちをしそうになるのをおさえる。
          
          
「かなりわかりやすいんじゃないですか?」
          
          
わざときつい口調でそういうと「やっぱりそっか....駄目だなあ、へへ」と明らかに傷ついた風に先輩は苦笑した。その素直さに、よけい俺はいらいらする。
         
         
「さっさと言えばいいじゃないですか?跡部さんに」
          
          
吐き捨てるようにそういうと、先輩は複雑そうに妙にひっかかる笑い方をした。
その笑い方が気に入らなくて、俺は顔をしかめる、それを認めて黙り込む先輩。

気まずい雰囲気が2人の間に流れる。

俺はお茶を買いに来ただけなのに、なんでこんな事になってるんだ?なんで跡部さんに片思いしてる女と、こんな気まずい沈黙しなきゃいけないんだ?馬鹿馬鹿しい。


「跡部は」


立ち去ろうと踵を返した俺をか細い声が引き止めた、睨むように彼女を振り返る。


「跡部は.......本当にいつかいなくなるから」

      
あのテスト前の日に、一瞬みせた悲痛な表情で、両手に跡部さん用のドリンクを握りしめ、先輩は小さな声で言った。苛立ちが最高潮までつのり「それが俺と何の関係が......っ!」と言おうとした瞬間ー..........風がふわり、と先輩の長い髪の毛をなびかせた。その白い首筋、 いつもは髪の毛に隠れて見えないそこに一点だけついた痣のような............そして花のような痕。
         
赤い、赤い痕。

その瞬間、俺は全てを理解した。

あの時3年の教室を去る間際、俺は笑ったよな?「なんだ、所詮この人も跡部さんに憧れるただの女か」と、そう思って見下すように俺は笑ったよな?“所詮自分も他の女と同じ”と思わせるのには、どれほどの忍耐と演技が必要だったのだろう。少なくとも、俺が日常で見かける彼女と跡部さんは、けっして男女の友情以上には見えなかった。けっして、けっして、それ以上にはー
          
目眩のような感覚におそわれて、俺は先輩の方を見もせずに階段を駆け上がる。背後で名前を呼ばれたような気がしたが、あの悲痛な表情をもう一度みるのが恐ろしくて、俺は振り返れなかった。教室に戻る途中で、向こう側から教科書を手にした鳳が「あっ日吉、ちょうどよかった、この問題わかるかな?」ときいてきたが、眼前に差し出された教科書を乱暴にはらいのけて、教室に向かう。びっくりしたような顔をする鳳に向かって俺は叫んだ。


「いくら勉強してもわかんねえもんはわかんねんだよ!!」


いや、ただひとつわかっているのは、俺は先輩を他の女と同じだと思いたかった事だ。それこそ俺の期待が入り込む余地すら無いぐらい“所詮ただの女”でいてほしかった。今みたいにバキバキとメッキが剥がれ、その下にうつる素顔が美しい事に気づきたくはなかった。その美しさの理由にもー


こんな思いは知らない。
どこの教科書にも、書いてはいなかった。








090802